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名言の背景としての福沢諭吉の生い立ち
福沢諭吉が一万円札の肖像画になっていることは誰もが知っていることです。教育者として有名ですが、その他にも数々の功績を残しています。 ではどのようにしてそのような偉大な人物になったのでしょうか? 福沢諭吉の生い立ちを見ていきましょう。
・・福沢諭吉の幼少期
福沢諭吉は百助と順の間に、5人兄弟の末っ子として誕生しました。しかし諭吉が
1歳のときに父・百助が他界。 その後は諭吉も内職や家の手伝いをしながら家計を支えました。 しかし活発でいたずら好きな一面もあり、殿様の名前を書いたお札を便所紙の代わりに使ったこともあると言われています。
・・教育者としての大きな一歩
5歳の頃から漢学などを学んでいましたが、本格的に勉強をはじめたのは
14歳の頃。 周りの子供たちが勉強をしているのを見て、自分も勉強をしなければと論語や史記などを必死に学びました。
19歳になると、長崎の山本重知のもとで蘭学を学びはじめます。 翌年は大阪の
緒方供庵の適塾に入塾し、住み込みで犬や猫の世話をしながらも最年少で塾長になりました。
23歳のときには江戸で自身の蘭学塾を開きます。
・・オランダ語が通じないことに愕然
24歳の頃に横浜を訪れる機会がありました。 諭吉は道行く海外の人たちにオランダ語で話しかけますが、返ってくるのは英語ばかり。 そこでオランダ語が通じないことにショックを受け、これからは英語の時代がはじまるのだと強く感じます。
・・書籍の発行と学校の設立
その後アメリカやヨーロッパに渡り、日本にも英語や自由で平等な海外の文化を広めようと単語集や書籍を発行。
37歳のときには代表作となる学問のすすめを発行し、ベストセラーになります。 また同じ志を持った人たちが一緒に学べるようにと、
慶応義塾大学を設立。 毎日新聞の前身となる
時事新報も設立しました。
・・福沢諭吉の晩年
脳卒中で倒れた諭吉は失語症となり、それまでのように上手く話すことができなくなりました。 その後
1901年、諭吉が
66歳のときに脳出血で亡くなります。葬儀には約
1万
5000人が参列したと言われています。
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福沢諭吉の有名なエピソード集
福沢諭吉には数多くのエピソードや功績がありますが、その中でも有名なものを紹介していきます。 しかし中には、え?そんな一面もあったの?と驚くエピソードもあるかもしれません。
・・実は破天荒
お酒が大好きで、なんと小さい頃からお酒をたしなんでいた諭吉。 何度かお酒をやめようとしたことがありましたが、友人の丹後宮津藩士に再度お酒を勧められて誘惑に勝てずに禁酒を断念。 そればかりかお酒の代わりにタバコを勧められ、お酒とタバコの両方をやめられなくなってしまったと言われています。
・・奥さんが大好き
26歳のときに
お錦という伴侶を得ました。 その後は奥さん一筋で、浮いた噂もなかったと言われています。 二人の間には子供が
9人もいるのですから、仲が良かったのは疑いようがありませんね。
・・数多くの和製漢語を作った
今となっては当たり前に使われている「自由」や「民主主義」「競争」などの
和製漢語は、諭吉が作ったと言われています。
・・保険制度を紹介した
西洋の保険制度を日本に紹介しました。 それまでの日本は、何かあったら家庭内で何とかするというのが当たり前の時代。 しかし教え子の
阿部泰蔵が生命保険会社を立ち上げたため、今日の保険制度があるのです。
・・銀行の考え方を変えた
海外から帰って来た後、銀行の制度や考え方などを変えました。 日本銀行の設立にも関わったと言われています。 経理で使われる複式簿記も伝えました。
・・新聞に天気予報を載せた
自身が設立した時事新報に、
日本ではじめて天気予報を掲載。 今では当たり前になっているお天気マークもこのときに一緒に掲載されました。