本田宗一郎はホンダを創業した実業家です。日本のみならず世界的なメーカーとして知られるホンダを作り上げた大経営者として、その生き方を参考にしている方も多いようです。
ホンダは当初、地元の小さな修理工場でしたが、またたくまに大きく成長し大企業になっていきます。その成長には本田宗一郎の思想や力が大きく影響しているのは言うまでもありません。
大企業を作り上げた本田宗一郎とはどんな人物だったのか。その名言や生い立ち、エピソードから考察してみたいと思います。
本田宗一郎の格言・名言集①~⑭
本田総一郎の名言① 思想と技術
⭐思想さえしっかりしていれば技術開発そのものはそう難しいものではない。技術はあくまでも末端のことであり、思想こそが技術を生む母体だ。
(『史上最高の経営者 本田宗一郎は何故マン島TTレースに挑戦したのか?』浜本哲治著 ゴマブックスより)
良く学び、考えを練り込む努力のなかに良きインスピレーションも降ってきます。
インスピレーションを源泉として思想が蒸留されます。そしてその美しい泉の水が、技術となってこの世に形となって現れてくるのです。
良き製品の母体には良き思想があり、思想を育むことは極めて大切です。
本田総一郎の名言➁ チームワークの大切さ
⭐自分の力の足りなさを自覚し、知恵や力を貸してくれる他人の存在を知るのもいい経験である。
(『たった一度の人生を、自分らしく思い通りに生きる方法: [自分の価値観]を磨く30のリスト』 井上裕之著 学研プラスより)
自分自身を正しく見つめる目と勇気がないと、自分の足りなさを認めることができません。
自分をしっかりと見つめ足りなさを把握し、自分と他人の組み合わせにより、事業を大きくすることが重要です。
チームワーク、組織仕事の原型となる考え方です。
本田総一郎の名言③ 伸びるためには
⭐伸びる時には必ず抵抗がある。
(『本田宗一郎一日一話―独創に賭ける男の哲学』PHP文庫より)
伸びる時は、人や他社との利害関係が生じる時です。だから仕事上の壁にぶつかったり、人の裏切りにあったり、苦しいこと、辛いこともでてきます。
また伸びる時は、現状維持を求める人には、驚異に映ることもあります。伸びる時は「変化」の時でもあるのです。
しかし、本当に良い方向ならば、「伸びる時には抵抗があるものだ」と思って、なにくそと思って突き抜けなければなりません。
本田総一郎の名言④ 進歩と反省の関係
⭐進歩とは反省の厳しさに正比例する。
(『得手に帆あげて』本田宗一郎著 三笠書房 より)
反省の厳しさから、教訓という名の智慧が生まれてきます。反省が発展につながっていくとても大切な名言です。
この一節について、本田宗一郎は次のように解説しています。
「間は、誰でも反省の重要さは一応知っている。しかし必要なときに、必要な反省をしている人間というのは、意外に少ないものだ。
とかく他人には厳しく、自分自身に寛大なのは凡人の常だ。第一、自分自身について冷静に批判の目を向けることさえ、なかなか勇気のいることなのである。反省となると批判によって得られたデータをもとに、直接その患部へ切開のメスを振るうことなのである。なまやさしい勇気ではそれはできないのだ。自己との闘争である。
だからといって反省しなければ、その人間はどうなるだろうか。われわれ凡人には一瞬一瞬厳しい反省が必要だということは、われわれ自身がよく知っているはずである。」
(本田宗一郎『得手に帆あげて』より)
本田総一郎の名言⑤ 成功と失敗の関係
⭐成功は99%の失敗に支えられた1%だ。
(『本田宗一郎の教え 成功は99%の失敗に支えられた1%だ!』原田一男著 ロングセラーズより)
物事の大半は失敗に終わり、残り1%がようやく成功につながります。
失敗したことに落ち込んでばかりいては前に進めません。成功まであと一歩であるかもしれないのです。しかし、途中まで努力したけど結局は諦めた人の多くが、そのような最後の1%の失敗をつかんでいるのかもしれません。
失敗があれば、またそこから学べる教訓が増えたと思って、再度起き上がり、チャレンジを続けましょう。そこで「もう一歩」、頑張りましょう。
本田宗一郎も幾たびも幾たびも失敗を繰り返し、その中から成功へとつながる生き筋を見いだして、大企業を作り上げたのです。
本田総一郎の名言⑥ まずやつてみる
⭐少しでも興味を持ったこと、やってみたいと思ったことは、結果はともあれ手をつけてみよう。幸福の芽は、そこから芽生え始める。
(『史上最高の経営者 本田宗一郎は何故マン島TTレースに挑戦したのか?』浜本哲治著 ゴマブックスより)
成功する人の共通項は積極的な精神的態度を持っていることです。そしてそれは「手をつけてみる」という行動を伴います。
その逆に成功しない人は、「こんなことをやってもどうせ駄目だろう」とか「こんなアイデアは意味がないもの」とか、自分で自分を縛って、自己限定してしまいます。
ものごとはやってみないとわからないことがあります。たとえば、自分が興味を持てたということは、同じようなものに同調する人もいるということでもあり、そこからヒット商品が生まれるかもしれません。
いずれにしても、積極的な精神的態度を続ける人は魅力的な人です。途中に失敗や挫折があったとしても、やがて大きくは道は切り開かれてゆくでしょう。
本田総一郎の名言⑦ 失敗を恐れるな
⭐日本人は、失敗ということを、恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである。
(『スピードに生きる』本田 宗一郎著 実業之日本社 より)
⭐挑戦した後の失敗より、何もしない事を恐れろ。
(『本田宗一郎―世界一速い車をつくった男 (小学館版学習まんが人物館)より)
失敗を恐れて何もしない人は、経験という宝物、そして経験に伴う智慧という宝物を得ることができません。
輝かしい人生をつくっていくためには、チャレンジ精神が必要です。
日本人は、何事も調和していくという優れた美徳を持っていますが、その反面、他人の意見に左右されて自分を埋没させたり、毎日を平凡に過ごして熱気のない人生になってしまう可能性があります。
「日本人よ、頑張れ!」という本田総一郎の励ましの言葉でしょう。
本田総一郎の名言⑧ 人生を味わう
⭐悲しみも、喜びも、感動も、落胆も、つねに素直に味わうことが大事だ。
(『時代を変えた科学者の名言』藤嶋昭著 東京書籍より)
喜怒哀楽を明確にせよと言っているのではなく、喜怒哀楽を味わう。そこに人間としての心の機微が養われてきます。
たとえば「落胆の場合」であったとしても、自分の心を静かに見つめ、受け止めること。しかし、「味わう」ということですから、そこに自分に対する徹底的な冷たさはなく、自分自身をも抱きしめるような愛おしい気持ちが必要です。
悲しみや苦しみ、喜びや楽しいこと、感動や感謝、落胆や失望などを、素直に味わえない人は、能面のような心境で生活を送っている人です。
他の方の感情の機微がわからずに、それが製品づくりにも生かされてはこないでしょう。このような味わいの「隠し味」から、世界のホンダの発明もうまれてきたのでしょう。
本田総一郎の名言⑨ 引き寄せとは
⭐こちらが悪ければ、悪い人間が寄ってくる。こちらが信用することによって、信用される人間が生まれる。
(『信じる力: 99%の人ができないと思うことを実現させるレバレッジ』 新 将命著 東洋経済新報社より)
類は友を呼ぶという言葉もあります。
自分の周りにどのような人が集まってくるかは、結局自分が出しているオーラによって決まります。それに合う波長の人々や物事が引き寄せられてくるのです。
本田総一郎の名言⑩ 葬儀についての遺言
⭐社葬はするな。車やオートバイのおかげで生きてこられたのに、自分の葬式で渋滞を起こすような迷惑はかけられない。
(『本田宗一郎語録(小学館文庫) 文庫』より)
この言葉の通り、本田宗一郎の葬儀は、通夜や社葬を行わずお礼の会が行われたのみでした。
本田総一郎の名言⑪ 失敗の功徳
⭐失敗が人間を成長させると、私は考えている。失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う。
(『心に「ガツン」と刺さる! ホンネの金言1240』西東社編集部 編より)
成功のためには失敗は欠かせない要素です。失敗することでそこに教訓を得て、成功へのヒントが生まれます。
また人々の悲しみや苦しみも知るようになります。そこに本当のニーズを使うかもしれません。心が練れて、立派な人格として成長してゆくのです。
人生や事業に成功したいならば、どんな失敗でもしょげてばかりいないで、失敗から何とかして立ち上がり、努力を積み重ねてゆくという心の指針を立てましょう。
本田総一郎の名言⑫ 強くなる努力を
⭐人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ。
(『史上最高の経営者 本田宗一郎は何故マン島TTレースに挑戦したのか?』浜本哲治著 ゴマブックスより)
今の現状を何とか打ち破りたいと思っているけれども、それを突破するエネルギーがでてこない。
そのような弱い自分を情けなく思っている人への、本田宗一郎の心からの励ましの名言です。
「強くなろうと努力している人間」を、名経営者は見過ごしはしません。
本田総一郎の名言⑬ 捨てること
⭐もったいないようだけど、捨てることが、一番巧妙な方法だね。捨てることを惜しんでいるヤツは、いつまでたってもできないね。
(『わが友 本田宗一郎』 井深大著 ごま書房新社より)
人は捨てることに抵抗を感じるものです。目に見えるものでもそうですし、心のなかの行き過ぎた名誉欲や地位欲などもそうです。
「何を捨てるか」。実はここに、今後の発展のための「鍵」があるのです。
本田総一郎の名言⑭ 日本の発展のために
⭐苦しい時もある。夜眠れぬこともあるだろう。どうしても壁がつき破れなくて、俺はダメな人間だと劣等感にさいなまれるかもしれない。私自身、その繰り返しだった。
(『史上最高の経営者 本田宗一郎は何故マン島TTレースに挑戦したのか?』浜本哲治著 ゴマブックスより)
ともに生きた同時代の人々だけではなく、後れてくる青年たちのために、何とか踏ん張って努力して道を開き、日本の発展のために尽くしてほしいという、心に染みる、本田宗一郎の愛の言葉です。
名言の背景としての本田総一郎の生い立ち
本田総一郎はどのようにしてホンダを創業し、そして成功に導いたのでしょうか。
ここでは本田総一郎の生い立ちから、その実状を追いかけてみましょう。
・・生まれから独立まで
本田宗一郎は1906年に静岡県で生まれます。父は鍛冶職人で、そのせいもあってか小さな頃から器用な少年だったといいます。
機械をいじるのが大好きで、車が好きだったこともあり、15歳の時に東京の自動車修理工場で働きはじめます。
6年間この工場で働いた本田宗一郎は、その後の1928年、アート商会浜松支店を開業します。
これは支店ではあるものの、独立に近い形態であり、ここからは自分の力で修理工場を運営、大きくしていきます。
・・ホンダが生まれるまで
当初は客も少なかった修理工場ですが、優れた技術が次第に評判になっていきます。
そのうち修理だけでなく車の改造も行うようになり、本田宗一郎はやがて商品の研究開発も始めるようになります。
この頃に今のホンダの基礎が作られたと言えるでしょう。
その後、修理工場は部下に任せて本田宗一郎は東海精機重工業という会社を設立、社長となります。
直後に第二次世界大戦が起こり、軍需工場としての役割も果たします。
終戦後は東海精機重工業を売却し、本田技研工業を設立します。
ここで自動車用エンジンを初めて製造するようになり、バイクの開発、自動車の開発と進んでいきます。
1960年には本田技術研究所も設立、本格的に自動車の開発をするようになり、F1カーの開発まで取り組みます。
こうしてホンダは世界的なメーカーとして知られるようになり、日本を代表する企業を作り上げます。
元々は小さな修理工場からのスタートでしたが、高い志と諦めない心、失敗を恐れない強い意思が大きな成功へとつながっていったのです。
本田宗一郎のエピソード
最後に本田宗一郎の有名なエピソードをいくつか紹介します。
・・何といっても、高い「志」。最初から「世界一の夢」を公言。
小さな町工場のおやじさんが、空箱の木で作られた「みかん箱」の上に乗って、鼓舞しを振り上げて、「必ず世界一になる」と言っている姿は有名です。
それを聞いていた工員たちは、最初はクスクスとほくそ笑んでいたようです。しかしその後、「世界一のホンダ」になったのを実体験したことは、彼らの魂において極めて貴重な学びになったことでしょう。
・・バイク開発のきっかけは奥さんへの愛
終戦直後、奥さんが自転車で買い物に行く姿を見て、自転車にエンジンがあればもっと楽になるのにと感じたのがバイク開発のきっかけだったそうです。
奥さんへの優しさと、柔軟な発想の持ち主だったことがわかります。
・・うるさいからと屋台のラーメンを買い占めた?
本田宗一郎は夜中まで仕事をしていることも多かったのですが、ある日自宅でとても大切なデザインを考えていた時のことです。
近くを通るラーメン屋の屋台から聞こえるチャルメラの音がうるさく、集中できないとしてラーメンをすべて買い占めてしまったそうです。
売り切れとなった屋台はチャルメラを流すこともなくなり、集中して仕事を再開できたという、豪快な面白いエピソードです。
・・作業着で勲章授与?
勲一等瑞宝章親授式に出席する際、本田宗一郎はツナギの作業着で出席しようとしました。
技術者の正装とは白いツナギだという考えからですが、天皇陛下の前にツナギで出ようというのはかなり衝撃的です。
結局は周りの社員に止められ諦めていますが、本田宗一郎の心意気が伺えます。
経営者としての大きな愛で人を育てた本田総一郎
本田宗一郎は機械いじりが好きだったことから自動車の修理を始め、やがてエンジン、バイク、自動車の製造へと進んでいきます。
たくさんの苦労や失敗もあったはずですが、持ち前の前向きさで諦めることなく挑戦を続け、やがて大成功を収めます。
経営者として知られる本田宗一郎ですが、本人は技術者でもあることにもプライドを持っていたようです。父の影響もあってか職人気質でした。
本田総一郎には、大きな愛と、その愛からくる「志」の高さが存在します。また、機械だけではなく、人が好きで、人の可能性を心から愛し、それを引き出す天才でもありました。
その言葉は現代社会でも考えさせられるものが多く、多くの人の参考になるのではないでしょうか。